南濱墓地 墓石調査 Hブロック
まずは配置図を作成しました。
各列をA~Vとしてそれぞれの墓石に番号をふって A-3 のように区別します。(あ~面倒だなあ)
青い四角は一族墓で、現在も祀られています。他に祀られているのは小数です。
大きな墓石が1基と円形の墓なのか石碑なのかわからないものが1基あります。
それ以外はあまり目立つものはなさそうですが・・・
H-1 竿石と台座のバランスが悪いのですが、よく見ると竿石が台座に嵌め込んであります。(普通は乗っているだけ)
正面 菅原種榮墓
台座 貞享五戊辰年(1688) 江戸初期になります。
寺井氏
正月十三日
天満宮研究によると
6代目種榮は 承応三年生まれ
元禄元年十二月九日没 貞享5年は元禄元年にあたります。
種榮の妻は滋岡の初代至長の娘
種榮没後に玉造の与力久松権兵衛に再嫁とあります。
よほど寺井の家にはいたくなかったのか。
H-4 これが難物で、一体何なのか、誰のものなのか、文字が浅くて風化しており判読しづらいのです。
台座の大きさはバランス良いのですが、水盤がやけに広いのです。月と池に見立てたのでしょう。
死後の家族よりも、本人が生前に注文して作らせていたのでは?
文字は見づらく拓本を取らないと読めそうにありません。
H-5 墓石としては古い形式でよくあるタイプで、滋岡・寺井氏にはみえないのですが、
正面 寛文八卒(1668)
寺井氏吉元荷宮神主 寺井氏はどこかの稲荷宮の神主でもあったようです。
九月十八日 哀子●●●●
それにしても、墓石を安易に注文してしまったのでしょう
下部に蓮華があります。蓮華は浄土に咲く花・・・
天満宮史研究によると
4代目吉元
母は神原景秋の娘
寛永三年生まれ
寛文五年八月廿八日没 墓の日付とあまりに違うので別人か?
妻 某 寛文九年六月十四日没
清浄院
左から順に
H-6 正面 尚月●●●●●
南無阿弥陀仏
?應妙善???
???
H-7 これは降参です。まったく判読できません。
H-8 正面 菅原種定墓
裏面 ???
寺井氏
●月十八●
天満宮史研究によると
5代目種定
奈良春日明神社社司中西時久の五男 春日大社と思われる
寛永四年十二月十五日生まれ
吉種の養子
元禄十一年四月廿八日没
裏側の列です。
H-13 正面 蘭智秀之墓 何とも不思議な名前です。 全く無関係ですが「森蘭丸」と「明智光秀」を連想しました。
右側面 大道家女 大道家の娘なので女性です。
裏面 宝暦八戊寅歳十月廿四日(1758)
H-15 正面 大中臣●●墓
右側面 享保十九●●年十月●六(1734)
社家が全て菅原を名乗るわけではなく、このように大中臣おおなかとみも古くからある苗字です。
中臣鎌足を思い出しませんか? 中臣は藤原一族です。
H-16 正面 大中臣元建墓
左側面 延享二●●(1745)
五月廿四日
この写真は裏面ですが
H-9 正面 碧樹遷岸儒人墓
裏面 二十年閏二月三日 20年まであるのは享保だけなので 1735年とわかる。
哀子寺井種元立
台座 島氏女
天満宮史研究によると
碧樹は5代目種定の妻 某
大阪浪人 島左近道斎の娘
元禄十年閏二月三日没
この島左近がアノ島左近なのでしょうか?
「石田三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」
関が原の合戦で死んだというのが主流
一説には生き延びて京都で寛永9年に亡くなり立本寺に墓があると。
別説では大阪に落ち延び東成郡で亡くなり、娘は天満宮に嫁いだと。
フェンス際は管理が行き届いていません。
左端 H-23 正面 正雲院真誉道意居士
真壽院正誉貞意大姉
右側面 天明八戊申年四月九日(1788)
俗名坪田治郎大夫源鎮純
背中を見せているのは、左から
H-12 正面 心立院之墓
右側面 大中臣鎮一建之
左側面 安永二●●●●●●(1773)
天満宮史研究によると
心立院は8代目種氏の妻栗だそうです。
大和石津大社神主陸野飛騨守定正の娘
安永五年七月九日没(1776)
種氏が亡くなって21年も長生きです。
H-11 正面 菅原種氏墓
裏面 寳歴二●●歳●●●●(1752)
寺井氏
天満宮史研究によると
8代目種氏
宝永二年生まれ
宝暦五年四月廿六日没(1755) 墓石と違う
子女 1保氏(9代目)
2某 女子 寛延四年八月四日没